MOMOGASHIMA STUDIO


兄弟作品 制作に至るまで

Related Works The Road to Production 【MENU】

01 .Section
制作の
始まり

 

02 .Section
挑戦が繋いだ
一歩

 

03 .Section
二つで一つの
物語

 

 

STORY

01.Section

制作の始まり

The Beginning of Production

奉納作品の
お話をいただいた時…

私は、喜びと同時に
大きな迷いと
向き合うことになりました。

2025年、浮島神社様を題材に描いた二作品は、それぞれ異なる目的と想いのもと制作されました。

一つは、浮島神社様100周年記念祭へ奉納させていただいた作品。

そしてもう一つは、日本国際水彩画会(JIWI)春季国際水彩画交流展へ挑戦し、入選作品となった《緑黄の神殿》です。

制作時期も目的も異なりますが、私の中では、この二作品は決して独立した存在ではありません。

神域の静けさや生命力を描こうと挑戦した《緑黄の神殿》での経験が、その後、感謝を込めて制作した浮島神社様100周年記念祭への奉納作品へと繋がっています。
 


STORY

02.Section

挑戦が繋いだ
制作までの基軸

A step forged through a challenge

No.01
制作の経緯

浮島神社・最上宮司様より
100周年記念祭へ奉納する
絵画制作のお話をいただいたとき

私は大きな喜びを感じる一方で、「今の自分に、本当に描ききれるだろうか」という不安も抱いていました。

これまでにも何度か、浮島神社様の新緑を描こうと挑戦してきました。
しかし私には、そこに満ちる生命力や空気感を、十分に表現することが難しく感じられていたのです。

石ころ一つひとつにさえ、大きな生命力が宿っているように感じる。

神域全体から伝わってくる気配を前にすると、それだけで心身ともに大きなエネルギーを必要とするような感覚がありました。

そのため、私はその率直な思いを、最上宮司様へお伝えしました。
すると最上宮司様は、穏やかに、「浮島神社の御神体は、お社や鳥居だけではなく、この神域全体なのですよ。」とお話しくださいました。

その言葉を伺った瞬間、それまで自分の中にあった感覚が、一つにつながったように感じました。

「そうか。私は神様そのものを描こうとしていたのかもしれない。」
そして同時に、もう一つの問いが生まれました。

「奉納とは、何を、どのような意図で捧げるものなのだろう。」

この問いへの答えもまた、ここから始まったのです。
 

No.02
「神様を描く」のではなく、
「神域に向き合う」という事。

「神様を描くのではない」
最上宮司様からいただいた
お言葉によって私の制作への
向き合い方は大きく変わりました。

浮島神社様の御神体が、社殿や鳥居だけではなく「この神域全体」であるならば、私が描くべきものは、目に見える一部分だけではありません。

森、水、石、光、風、そしてそこに生きる生命。

それらが互いに関わり、巡り、移り変わっていく「生命の循環」そのものを、私なりの視座で受け取り、絵として表現することなのではないか。
そんなふうに感じたのです。

私は仏教徒ですが、今回の体験を通して、宗派や信仰の違いを越えて、神仏との出会いには「今の自分に必要なものへ気づかせていただく」という側面もあるのではないか、と感じました。

これは、あくまで私自身が、この場所と、このご縁から受け取ったものです。

浮島神社様の神域を歩き、そこに満ちるものを感じ、最上宮司様のお話を伺う中で、私の中に強く残ったのは、生命には「生まれること」だけではなく、「終わること」「変わること」「再び巡ること」も含まれている、ということでした。

森が芽吹き、枯れ、土へ還り、また新しい生命を育むように。
人の人生にも、停滞や変化、破壊と再生のような時期がある。

その循環の中で、自分自身が変わらなければ、同じところへ何度でも戻ってしまうこともある。

そんな自然の摂理にも似た大切なことを、「教えていただいた」というよりも、そっと肩をたたかれて「気づいてみて」と声をかけていただいたように感じました。

No.03
六道輪廻という「心の地図」

この「気づく」ということを
考えていたとき、
私は仏教の「六道輪廻」という教えに
改めて思いを巡らせました。

六道輪廻とは、仏教において、生きものがその行いや心のあり方などに応じて巡るとされる六つの世界を示す考え方です。


たとえば…

【 地獄道 】
 ・苦しみや怒りなどに覆われた世界

【 餓鬼道 】
 ・欲望や執着にとらわれ、満たされない世界

【 畜生道 】
 ・本能や弱肉強食に支配される世界

【 修羅道 】
 ・争いや嫉妬、競争心にとらわれる世界

【 人間道 】
 ・苦しみも喜びもあり、学びや気づきを得ることのできる世界

【 天道 】
・大きな喜びや恵みに満ちる一方、そこにも終わりがある世界

…という六つの世界線です。


これは仏教における世界観の一つですが、この世を離れた時に、広大な根元意識(1つの大モトの存在の世界)に、魂が共鳴して固定するエネルギーの世界線を表現している宗教的な見識ってだけではなく、じつは今を生きる「人の心の状態を見つめるための視座」としても、とても重要視される事を、仏教の和尚人に教えていただいて以来、私はとても助けられる指針として大切にしていたりします。

また、人間って、一日の中でも、地獄にも、餓鬼にも、修羅にも行くことがある。どうしようもなく腹が立つ日もある。誰かが羨ましくて仕方がない日もある。欲しいものに執着して、心が苦しくなる日もある。

反対に、誰かの優しさに救われたり、嬉しくて笑ったり、「生きていてよかった」と思える瞬間もある。

こういった、「人は1日の中で六道輪廻を巡る」という六道の世界観は、遠い世界の話というワケではなく、私たちの心の中にも日々現れては消えていくものとして捉えることができる見方でもあったりします。
気弱で迷走しやすい私にとっては「ウグッ!ハッ!(我に還る)」と、幾度となく助けていただいた、とても大切な智慧の1つだったりもします。

なぜなら、
「今、自分はどこにいるのだろう?」
と気づくことができれば、そこから一度立ち止まり、戻ることができるからです。

「今、自分は地獄にいるな」と気づいたら、ずっとそこに居続けなくてもいい。
それは、自分を責めるための気づきではなく、「もうここから出よう」と、自分自身を迎えに行くための気づきだったりもします。

怒りに飲み込まれている自分に気づいたら、一度離れて、仕切り直してもいい。

何年も同じ苦しみの中にいるのではなく、少しずつでも、自分のいる場所を変えていくことができる。

私はそれを、「自分を愛する」ということの一つの形なのではないかと感じています。

人は、愛がなければ、自分自身と向き合うことさえ、ただ痛いだけになってしまうことがあります。

だからこそ、「自分は今、どこにいるのか」と気づくことは、自分を責めるためではなく、自分を苦しみから連れ戻してあげるためにあるのかもしれない。

今回の奉納制作は、神道の神様である浮島神社様が「仕切り直しのタイミングや、自分の見直しへのリセットの大切さ。それを"自然の摂理"をもって、教え、導いて下さっている」…、そんなふうに、私は感じたのです。

学びの場が、神社の中ではなく、「あまりにも荘厳で、美しい、森の中」である事が、私にとって「神様って、美しさをもって、学ばせて下さるんだね…」と感動して、感涙してしまうトコロでもありました。

到着地点の答えのアドバイスを、一言で示して下さった、最上宮司様。
「この一言」は、いろんなお話しを伺った際、なぜ一言で心に届いたのかがわかる気がしました。それは、宮司様が浮島神社様に「視座を定めて、移ろいゆく、変わりゆく、変化する生命の流れを、とっても深く、長い間、考察されていたからこそ」だからだったのだと思います。

その「考察・観察・ちゃんと自分の考えに紐付けて、責任をもって語る厳格さ」は、創作をする立場の自分自身に対して、改めて身の引き締まる想いを得たと同時に、いくつになっても謙虚な気持ちで事に励み、学び続ける事の素敵な姿勢が、どれほど大切な事なのかを教えていただきました。

そして、「慈愛をもって、命の循環をみつめる真心」を胸に抱いて筆を握ろうと…、少しづつですが、決意する的(マト)が定まってきました。

No.04
「仕切り直す」ことも、
「祈り」なのかもしれない

ここまで考えていくと
私の中で「祈り」の意味も
少しずつ変わっていきました。

人は神社へ行くとき、「お願いをしたい」「助けてもらいたい」と思うことがあります。私自身も、人間ですから、もちろんそういう気持ちになることがあります。

けれど今回、最上宮司様のお話を伺いながら、私は「奉納」とは、自分の願いを叶えていただくためのものではなく、その場所に鎮座される神様へ、真心を込めて捧げるものなのだと受け取りました。


だからこそ、奉納作品を制作する者として大切なのは、自分が描きたいものを一方的に表現することではない。

奉納先で大切にされているものは何なのか。

その神域が感じさせてくれるものは何なのか。

そこにある「意図」を一所懸命に感じ取り、考え、自分の真心をもって表現すること。

そして、その作品を通して、自分自身もまた、その学びを受け取っていくこと。


私にとって今回の奉納は、そんな「学びの循環」でもありました。

そして「祈り」とは、ただ願いを届けることだけではなく、神様の前で自分自身を見つめ、素直で謙虚な心を持って、これからの生き方を自分自身に問いかけることなのかもしれない。

「もう一度、ここからやり直そう。」
「自分を変えてみよう。」
「今までとは違う選択をしてみよう。」
そんな決意を、自分自身に立てること。

私は今回、「仕切り直すこと」もまた、一つの祈りなのかもしれないと感じました。

神様にすべてを委ねるのではなく、自分にできることを精一杯行い、そのうえで「どうか導いてください」と願う。

その姿勢こそが、私にとって今回のご縁から受け取った「祈り」の姿でした。

No.05
生命の循環を描くということ

今回の奉納作品で
私が描きたかったのは、
浮島神社様の「美しい風景」
だけではありません。

その場所に満ちている、生命の循環。
生まれ、育ち、変化し、終わり、そしてまた次の生命へとつながっていく、その大きな流れです。

森や水や石といった自然だけではなく、私たち人間の生き方もまた、その循環の中にある。

苦しい時期があっても、そこから学び、考え、少しずつ自分を変えていく。

何かを手放すことで、新しいものを受け取れることもある。

そして、もし今、自分が望まない場所にいるのなら、「ここから抜け出したい」と気づき、自分自身の意思で一歩を踏み出すこともできる。

それは、今回私が六道輪廻という考え方から受け取った「気づき」とも重なります。

どれほど苦しい場所にいるように感じても、「ここが自分のすべてではない」と気づくことができれば、次の一歩を選ぶことができる。

だから私は、生命の循環というものを、ただ同じことを繰り返すことではなく、気づきながら、学びながら、少しずつ次へ進んでいくこととして感じています。

龍が螺旋を描きながら天へ昇っていくように。

破壊と再生、停滞と成長、終わりと始まりを繰り返しながら、生命は次の場所へ向かっていく。
その大きな循環の中に、自分自身もまた生きている。

それに気づかせていただいたことこそ、今回のご縁から私が受け取った、かけがえのない学びでした。

No.06
奉納作品に込めた感謝

制作を始める前にいただいた、
最上宮司様の一言。

「浮島神社の御神体は、お社や鳥居だけではなく、この神域全体なのですよ。」

この"言葉・答え"がなければ、私はきっと「神様をどう描けばいいのだろう」と、ずっと悩み続けていたと思います。

けれど、その言葉によって視座を変えることができました。

神様を描こうとするのではなく、神域に向き合う。

目に見えるものだけではなく、そこに満ちる生命の気配を感じる。

そして、自分にできる精一杯の真心を、作品として捧げる。
それが、今回私が見つけた「奉納」への向き合い方でした。

今回、浮島神社様100周年記念祭へご依頼頂いた奉納作品制作は、私にとってあまりにも光栄で、とてもありがたい機会でした。

このご縁を与えて下さった浮島神社様、そして制作にあたり大切な気づきを与えてくださった最上宮司様へ、心より感謝申し上げます。

もし最上宮司様とお話しする機会がありましたら、ぜひ、浮島神社様の神域が感じさせてくださる「生命の循環」について、伺ってみてください。

きっとそこには、実際にその場所へ足を運んだからこそ感じられる、不思議で、神秘的で、壮大な世界が広がっていることと思います。

私も今回いただいたご縁と学びを胸に、これからも一つひとつの作品と、丁寧に向き合っていきたいと思います。

STORY

03.Section

二つで一つの物語

A story that is two parts of a whole

No.01
兄弟作品が生まれた理由

奉納作品へ向かう覚悟を固めるために
私がまず取り組んだのが
《緑黄の神殿》の制作でした。

奉納作品を制作する「心・向き合い方・決意」が定まったとしても、実際に作品へ向き合うためには、私自身の姿勢を整え、覚悟を確かめる時間が必要でした。

その中で、私は二つの異なる「想い」を、一つの作品に混ぜてしまわないことが大切なのではないかと感じるようになりました。


・一つは、神様へ真心を向け、純粋な気持ちで捧げる「奉納」。

・もう一つは、人として生きる私が、社会や世界、そして人々へ向けて感じている「祈り」や「慈愛」。


どちらも私の中から生まれる大切な想いですが、その向かう先には、明確な違いがある。だからこそ私は、直感的に、「この二つは、分けて表現したほうがいい。」そう感じました。

それは、前章でお話しした「奉納とは何か」という学びを得たからこそ気づけたことでもあります。

絵画は、同じ作者が描いたとしても、そこへ向ける心の姿勢によって、まったく異なる表情を持つ…。それは、私が創作を経験する中で学ばせていただいた、とても奥深く、大切な制作のポイントでもあります。

私にとって「奉納」とは、神様へ向けて余計なものを手放し、ただ真心をもって向き合うこと。

一方で「祈り」は、人として生きる私が、誰かを想い、世界を想い、生命の幸せを願うこと。その二つを、それぞれの作品として具現化することにしました。
 

No.01
兄弟作品が生まれた理由

奉納作品へ向かう覚悟を固めるために
私がまず取り組んだのが
《緑黄の神殿》の制作でした。
奉納作品を制作する「心・向き合い方・決意」が定まったとしても、実際に作品へ向き合うためには、私自身の姿勢を整え、覚悟を確かめる時間が必要でした。

その中で、私は二つの異なる「想い」を、一つの作品に混ぜてしまわないことが大切なのではないかと感じるようになりました。


【 一つは、神様へ真心を向け、純粋な気持ちで捧げる「奉納作品」】
※ 神様に完全に捧げ、神社のものとして永続的に納める作品である事。

【 もう一つは、人として生きる私が、社会や世界、そして皆様へ向けての「祈り」や「慈愛」を捧げた「奉献記念作品」】
※ 神様に捧げるために描き、その記念・兄弟作品として手元に残した作品である事。


どちらも私の中から生まれる大切な想いですが、その向かう先には、明確な違いがあります。
だからこそ私は、直感的に、「この二つは、分けて表現したほうがいい。」そう感じました。


それは、前章でお話しした「奉納とは何か」という学びを得たからこそ気づけたことでもあります。

絵画は、同じ作者が描いたとしても、そこへ向ける心の姿勢によって、まったく異なる表情を持つ。

私にとって「奉納」とは、神様へ向けて余計なものを手放し、ただ真心をもって向き合い作品制作に励む事。

一方で「祈り」は、人として生きる私が、誰かを想い、世界を想い、生命の幸せを願うこと。
その二つを、それぞれの作品として別々に具現化することが適切だと判断しました。

No.02
最初の一歩
《緑黄の神殿》

そうして
奉納作品へ向かう
第一歩として制作したのが
《緑黄の神殿》です。
私はこの作品に全力を注ぎ、その結果を通して、自分自身の現在地を受け止めようと考えていました。

もし結果が伴わなかったならば、「今の自分には、まだ経験や力が足りない」と受け止める。
そして、奉納のお話についても、改めて誠意をもってご相談させていただこう。
そう心に決めて、制作に向かいました。

その結果、《緑黄の神殿》は光栄にも、日本国際水彩画会(JIWI)春季国際水彩画交流展にて入選という評価をいただくことができました。

その経験は、私にとって大きな自信となりました。

そして私は、最上宮司様へ正式にお引き受けするお返事を申し上げ、浮島神社様100周年記念祭への奉納作品制作へと、歩みを進めることができたのです。

No.03
《緑黄の神殿》は、
なぜ「兄弟作品」なのか

神道・神社に飾られている
鏡の意味・意図する
極めて重要な教え
「《緑黄の神殿》・奉献記念作品」の方は、「手を合せ、祈る相手は、貴方自身である事」を思い出させてくれる「神道・神社に飾られている鏡の意味・意図する」極めて重要な教えが込められた、神様や宮司様方々への、最大の敬意をこめて私、瀬兎谷【セトヤ】からの「祈りの姿勢」です。


私が《緑黄の神殿》の作品に込めた想いは「慈愛」。

100周年記念祭に捧げた、私の奉献記念作品の方は、
「神様が愛を向けて下さった全ての命が、神様に手を合せて"祈る”」とき、
「鏡合わせとなり、反射して、慈愛の深く豊かな愛が、”祈る人の中に鼓動する愛と光”で、満たされますように」という想いを、私はこの作品に祈りとして込めました。


浮島神社様を訪れ、手を合わせたとき。

そこに感じる「慈愛」は、どこか遠くから与えられるものではなく、実はその人自身の中にも、ずっと存在している…。

神社という場所で手を合わせたときに感じる、深く穏やかな愛。

それは、もともと自分の中にあったものを、思い出させてくれるような感覚でもあります。

《緑黄の神殿》は、「奉献記念作品」として、これからも私自身が作品として大切にしながら、ももヶ島スタジオを通して、より多くの方へ届けていく作品です。

振り返ってみると、それもまた、この作品が担うべき役割だったのかもしれない。

今では、そんなふうに感じています。

No.04
二つの作品
一つの想い

こうした経緯があったからこそ
私にとってこの二作品は
深く結ばれた
「兄弟作品」なのです。
《緑黄の神殿》は、人として世界へ向ける「慈愛」。

そして、今回の奉納作品は、神様へ向けて捧げる「真心」。


向かう先も、役割も異なります。
けれど、その根には、生命を想い、愛し、よりよく生きようとする一つの想いがあります。


一方の作品があったからこそ、もう一方の作品へ進むことができた。


《緑黄の神殿》という挑戦を通して、自分自身の現在地を知り、覚悟を確かめることができたからこそ、私は奉納作品へと歩みを進めることができました。

だから私にとって、この二つは別々の作品でありながら、決して切り離すことのできない「兄弟」なのです。

それぞれ異なる道を歩みながら、一つの想いから生まれた二つの光。

この「光の結晶」が、ももヶ島スタジオ公式サイトを通じて、ご覧くださる皆様の心へ、穏やかに届きましたら幸いです。

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